「環境新聞」に弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~【第1期:生誕から司法試験合格まで】③』が掲載されました

環境新聞にて、令和6年1月17日より隔週連載されております、
弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~』が掲載されました。

芝田稔秋が弁護士になるまで、そして、弁護士として50年以上廃棄物処理法に
係わってきた半生を、1年間に亘って連載されます。

この度、「第1期:生誕から司法試験合格まで」の
第3回が掲載されましたので、ご紹介させていただきます。

第1期第3回(令和6年2月16日掲載)
「1968年、30歳でついに司法試験に合格」

 1.書生としての仕事
 ⑴家庭の仕事の手伝い
 元田先生の家では、自宅と事務所が一つだったので、家庭と事務所の二つの仕事あった。
 家庭の仕事とは、主に奥様から指示された仕事の手伝いである。高校1年の男の子のする家の仕事は、そんなに多くはなかった。家の周りの庭の掃除、家の中の整理・整頓・掃除などである。窓を磨いたり、お使いに行ったり、風呂を洗ったり、洗濯物を取り込んだり、ゴミを出したり、炭を切ったりなどである。
 ⑵事務所の仕事
 書生の事務所の仕事としては、高校生の頃は、証拠書類の「写し」を作る仕事が多かった。その頃はコピーの機械がなかったので、手書きで写しを作るのだ。写しの作成は、裁判所への提出用、相手方に渡す分、そして自分の控え用の最低限3枚。カーボンを挟んで書き写す。相手方が2人とか3人になれば、その分増やす。
 土地・建物賃貸借契約書、地代・家賃の領収書、土地・建物の登記簿謄本、戸籍謄本や住民票、手形や小切手、金銭消費貸借契約書等々、証拠として提出する書類は全部、書き写した。一挙に6枚書くこともよくあった。
 弁護士会館で、写しを重ねて書くための薄い紙の用紙(和紙)を売っていたので、それを買ってきて利用した。手形用紙、小切手用紙のほか、土地・建物の登記簿謄本や戸籍謄本はワクや不動文字が印刷された用紙があり、写しを作るのに便利であった。
 高校2年生頃までは、仕事の意味がわからず、ただいわれた書類の写しを作るだけだった。しかし3年生頃になると、少しずつ内容がわかってきて、事務の仕事も面白くなってきた。
 また裁判所や検察庁に、書類の提出や証明書類をもらうために、よく使いに行った。都庁、区役所、税務事務所などにも、住民票や戸籍謄本や評価証明書をもらいに行った。この経験のおかげで、窓口での対応に慣れ、弁護士になってからは、役所との交渉においても、堂々と振る舞うことができた。
 いつのころか、タイプライターができたので、タイプライターを使うようになった。コピーが取れるようになったのは、いつだったか覚えていない。初めの頃はコピーは湿式といって、コピーが上がってきた時点では液で濡れていた。液のため薄い紫色がついており、乾かす時間を要した。それでも随分と便利になり、写しの仕事は大いにラクになった。

 2.大学進路の決定はどうしたか、浪人生活で得たもの
 高校4年(夜学だったため)になったが、私は進路が決めきれず、英語の先生になろうかと思っていた。そうして東京都立大学を受験したが、落ちて1年浪人した。
 私は上京した当時はもちろん、高校時代にも、弁護士という職業が何かが全然わかっていなかったので、弁護士になるなど、全然考えたこともなかった。
 しかし浪人中に、弁護士になろうと進路を決断した。理由は、自分が毎日、元田先生という弁護士の仕事を手伝っていることは、まさしく弁護士の見習いをしていることであり、今の仕事は将来に直結しており、これほど恵まれた有難い環境はないと気がついたからである。そこで、中央大学に入学することを決め、幸い合格することができ、大学の入学や毎月の学費は一切、元田先生が負担してくださった。

 3.大学卒業後の浪人時代の思い出
 ⑴中央大学での司法試験の受験時代
 中央大学は、当時お茶の水にあった。大学1年生と2年生は「教養学部」なので、憲法や民法や商法・刑法など、専門の法律の科目はなかったものの、法学概論などの教科があったと思う。私は本屋で、まず尾高朝雄著の『法学概論』を買って読み、感動した。文章の美しさと名調子に感激し、震えあがるほどの嬉しさを覚えた。法律学がとても楽しい学問だと思った。その後、憲法の本を読んだ。最初に買って読んだのが『注釈日本国憲法』の上・下2冊だった。憲法の前文と憲法が制定された経緯、国民主権主義、基本的人権の保障とそれを担保するためのいろいろな制度など、最初は難しかったが、何度も読んでいるうちに、よーくわかってきて、この本にも感動した。
 この後、宮沢俊義先生や清宮四郎先生の憲法の本も読み、これにも感動した。大学2年、3年と進級するうちに、民法や刑法や商法なども勉強した。大学4年生の5月に司法試験の短答式試験があるので、元田先生にお願いして受験料をもらって受験した。私は初めてだから落ちるだろうと思っていたが、なんと受かってしまった。
 ⑵パチンコへの凝りと受験の失敗の繰り返し
 短答式試験に受かったのは、受験科目が3科目(憲法・民法・刑法)と少なかったからである。次の7月の論文式試験は、3科目のほかに5科目増えるから勉強が間に合わず、受かるはずがなかった。
 翌年も5月の短答式試験は受ったが、7月の論文式試験は再び落ちた。このときの落第の原因は恥ずかしくて言いにくいが、実は私はパチンコに凝っていたのである。
 私は書生としての仕事を終えた後、夕方5時ごろ、家を出て中大の研究室(司法試験受験者のための施設)に向かうのだが、鶯谷駅前にあったパチンコ屋に入って球を弾き、景品を獲って売って小遣いを稼ごうとしたのである。
 パチンコ屋には、毎日1時間半から2時間くらい入っていたと思う。そうすると、立ってばかりいるので疲れてしまい、眼は充血する。カネを吸い取られてしまい、嫌な思いをしながら、研究室に夜7時か7時半に着く。それから9時ごろまで読書するが、気分がよくないし疲れているから頭に入らない。結局、4回目は5月の試験までも落ちてしまった。

 4.パチンコからの立ちなおり、司法試験合格
 4回目の5月の試験に不合格になってから、私は心から反省した。そして、堕落した己を恥じて発奮した。パチンコと絶縁しなければダメになってしまうと自分に強く言い聞かせて、完全に依存症から立ちなおった。その後は、パチンコ屋の前を通っても全く平気で、入らずに素通りできた。
 その甲斐あって、1968年の司法試験では、5月の短答式も7月の論文式も9月の口述式も全部合格した。30歳になっていた。(つづく)

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