「環境新聞」に弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~【第1期:生誕から司法試験合格まで】④』が掲載されました

環境新聞にて、令和6年1月17日より隔週連載されております、
弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~』が掲載されました。

芝田稔秋が弁護士になるまで、そして、弁護士として50年以上廃棄物処理法に
係わってきた半生を、1年間に亘って連載されます。

この度、「第1期:生誕から司法試験合格まで」の
第4回が掲載されましたので、ご紹介させていただきます。

第1期第4回(令和6年2月28日掲載)
「横浜で研修生時代を過ごし、いよいよ弁護士に」

 1.塩子との交際と結婚
 私は司法試験の合格したあと、司法修習が始まる前に塩子と結婚した。
 塩子は、ふるさと芝から二つ離れた集落「瀬武」の出身で、薩川中学校での同級生であった。まさか塩子と結婚することになろうとは、当時は全然思いもよらなかった。
 思い出すのは、私が東京に行くことを知った塩子が、同じ瀬武のクラスメート女子3人の計4人で、1954(昭和29)年1月初め頃、私の送別会を開いてくれたことである。私は大喜びで、塩子の家に出かけてご馳走になった。ヤギの肉がたっぷり入った「ヤギ汁」である。奄美では、「ヤギ汁」は最高のもてなしだ。正月とか古希の祝いとか喜寿の祝いなど特別の祝いのときに、飼っていた豚とかヤギを殺して、祝宴に供するのである。
 塩子の父親は、瀬武の自分の屋敷の一角に郵便局舎を持ち、郵便局長をしていた上に、田や畑もたくさんもっていて裕福だった。塩子が親に頼んで、正月で使ったヤギの肉の残りを使わせてもらったのだろう。よくぞ送別会など思いついたと感心する。塩子は、薩川中学校を卒業した後、古仁屋の高校に入学した。卒業後は、瀬武の郵便局に勤め(国家公務員)、5年ぐらいたって東京の小金井の郵便局に転勤になったという。
 そんなある日、「最近、東京の郵便局に転勤になった」旨のはがきが突然来て驚いた。しかし、私は試験勉強をしていて、しかも長く浪人している身なので、はずかしくて会えない。そう思って、しばらく放置していた。しかし、同級生のよしみではないか。試験勉強の合間に会ってみようと思いなおした。時期がはっきりしないが、1966年の夏ごろだったと思う。会って食事をしたことがある。聞けば、まだ結婚もしていないという。お互い28歳の頃である。交際相手はいないということだった。この頃の私といえば、パチンコに夢中になっていた。
 その後しばらくしてから、私の方から会いたいと連絡して会うこともあった。司法試験合格までの間、塩子には、経済的にも精神的にもずいぶんと世話になった。
 司法試験に合格した年の翌年、私は塩子に結婚を申し入れて、1969年2月に結婚式を挙げた。結婚式の費用は全部、塩子の父親が負担してくれた。仲人をしてくれた元田弥三郎先生が、塩子の名前について、「塩」はいろいろな物の清めに使うので、塩子のお父さんがそういう期待を込めてつけたのだろうと解説された。元田先生の洞察力に感心して、私も以後、良い名前だと思うようになった。

 2.元田先生のもとでの書生生活が終わる
 1969年3月20日をもって、元田先生の書生生活を終えた。1954年1月から1969年3月まで実に15年に及んだ。元田先生と奥様やご家族に長期間お世話になり、感謝の気持ちで一杯である。

 3.修習生時代の住居
 私の修習地は横浜地方裁判所だった。住居をどうしようかと思案していたところ、同じ横浜地裁修習の友人(横田君)が、修習生になる前に弁護士事務所の事務員をしていて、大田区の大森町駅の近くにある2階建てのアパートの管理人を頼まれて住んでいるという。2階の5部屋全部が空いているから住んだらどうだ、修習生の間だけとして、2部屋を1部屋分の家賃で住んでよいと声をかけてくれた。それは有難いといって転居した。
 ところで、私にアパートを紹介してくれたこの横田君も弁護士になり、釣りが好きだと言って、大森町から海に近い茅ヶ崎に転居したが、弁護士になった翌年の1972年1月の強烈な大風の日に、茅ケ崎の海岸通りを自転車で傘をさしての走行中、風にあおられて道路の中ほどに引き倒され、そこへ来た大型のタンクローリーに轢かれて即死と聞いた。当時、横田君の奥さんは身ごもっていて、彼が亡くなった後、5月に出産したらしい。せっかく弁護士になり、これから大いに幸せになるという時期に本当にきのどくなことであった。

 4.修習時代の思い出
 私の修習時代は、国から給料が出たので、たいへん助かった。たしか月7万円だったと思う。修習時代は、民事裁判・刑事裁判・検察官・弁護士修習と経験し、いずれもみんな楽しかった。幸いにも横浜地検には、なんと同じふるさと芝出身の10歳くらい先輩の芝田正一という人が事務官として勤務していた。私の修習を大いに喜んでくれて、随分と世話になった。検察庁内の床屋に行くと、カネは取らない、取るなといわれているという。また庁舎内の食堂で食事をしても名前を訊かれて、お金はいらないといわれる。先輩が払ってくれるからだという。有難いことであった。
 当時の私は、船舶の衝突事件に興味があった。そこで検察修習においては、海事事件は普通の実習コースには入っていなかったが、個人的に特に担当検察官にお願いして、船の衝突事件の記録を読ませてもらった。海図という大きな地図があり、そこには海の深さが克明に記させている。初めて見る珍しい地図で、とてもいい勉強になった。この勉強は後で述べる山下海事事務所に入るにあたり、随分役立った。
 1969年9月、どの修習の時期だったか思いだせないが、起案に非常に忙しくしていたときに、長女(稔子)が生まれた。この当時、私の母も同居していたので、産後の塩子の手伝いは安心だった。
 民事裁判修習では研修旅行があり、伊豆半島先端の下田の温泉旅館に2泊した。何を研修したか忘れたが、初めての温泉が嬉しかった。
 1970年の秋は、紀尾井町の司法研修所本部でのまとめの修習である。1年前の春に見えた遊びの雰囲気が消えて、みんな緊張しているように見えた。そんな中、1970年12月に次女(麻里)が生まれた。

 5.弁護士としての海事事務所への就職
 私は、修習を終えて弁護士になるに当たり、海事関係の法律事務所を探していた。たまたま、新橋から虎ノ門を結ぶ烏森通りにある「弁護士ビル1号館」に「山下豊二法律事務所」が弁護士を募集していたので訪ねたところ、幸いにも採用された。山下豊二先生は、海事事件の中でも衝突事故が専門である。私の希望にズバリで、幸運であった。
 弁護士になるにあたり、大田区大森町から埼玉県川口市に転居した。(つづく)

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