「環境新聞」に弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~【第2期:1970年代(昭和45年以降)】④』が掲載されました

環境新聞にて、令和6年1月17日より隔週連載されております、
弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~』が掲載されました。

芝田稔秋が弁護士になるまで、そして、弁護士として50年以上廃棄物処理法に
携わってきた半生を、1年間に亘って連載されます。

この度、「第2期:1970年代(昭和45年以降)」の
第4回が掲載されましたのでご紹介いたします。

第2期第4回(令和6年4月24日掲載)
「陳述活動の功績で業者と懇意になり顧問先が増える」

 1.1976年の法律改正に際しての陳述活動
 ⑴1976年の廃掃法の改正に際して、業者たちの陳情活動があった。私は、陳情書を書くよう依頼されて執筆した。
 1975年の頃、都内で六価クロムの大規模な不法投棄があった。その元凶が再委託にあるとして、本法で再委託を禁止することや、排出事業者が運搬業者だけでなく、中間処理業者や最終処分業者とも契約すべきだという二者契約または三者契約が強制されるという噂が流れた。それでは業者は非常に困ると、特に収集運搬専門の業者が騒いだので、産廃新聞社が関東の産廃業者に陳情活動をしてはどうかと呼び掛けたのであった。
 そこで危機感を持った東京・横浜・川崎・千葉・埼玉・茨城などの処理業者(主に運搬業者)70社ほどが集まり、改正について緩和するよう陳述活動をしようとなった。
 当時、私は産廃新聞に連載をしており、私の名が知れていたので、陳情文を書いてくれと依頼された。
 ⑵集まった運搬専門の業者が特に警戒したのは、①再委託の禁止が徹底されるということと、②排出事業者は今までは運搬業者とだけ委託契約をすればよかったのに、改正案では排出事業者は中間処理業者や最終処分業者とも契約を結ばなければならないということ、つまり、「二者契約」または「三者契約」の締結が強制されるということだった。それを運搬専門の業者は困るという。
 なぜか。
 排出事業者は今までもわれわれ運搬業者とだけ契約して、中間処理業者や最終処分業者の存在は知らなかったのに、今後は処分業者や最終処分業者の存在を知れば、排出事業者が処分業者や最終処分業者と直接契約することになり、われわれ運搬業者が処分業者たちの処理費もまとめてもらっていた「妙味」がなくなるという懸念だった。
 しかし私は業者たちに対し、排出事業者の自己処理責任制度のもとでは、排出事業者が自分の責任を果たすためには、運搬業者とも処理業者と直接、契約を結ばなければならないという改正案は当然のことであり、それをダメとは言えない、それよりも、再委託の一切を禁止することこそ、処理業界の実績や必要性を無視するものであり、処理業務の適正処理にも支障を来す心配があるので、過剰規制にならないようにという陳情ならスジが通るから、陳情書が書けるといった。業者たちは納得してくれ、その内容での陳情書を依頼された。
 収集運搬業専門の業者たちの本音を聞いてわかったが、それはエゴというものであり、私は譲れなかった。
 陳情書は、内閣総理大臣、通産大臣、運輸大臣などに提出した。約15名の代表者たちと一緒に厚生省の大臣室に行って陳情書を提出し、約1時間話したことを覚えている。大臣は留守で、対応してくれたのは、たしか医務技監であった。
 私が代表として陳情の趣旨を述べた後、業者たちが業界の実情を話して、再委託の必要性を強調し、過剰規制にならないように求めたのだった。
 ◆廃掃法は、1976年6月に改正された。「再委託の禁止」や「二者契約の締結の強制」などが規定されたが、しかし両者とも思ったよりは緩和されていた。この程度ならやむを得ないと、参加者一同は喜び、新橋駅近くの店に集まって、祝杯をあげたものである。
 ◆陳情活動の功績で私は業者たちと懇意になり、顧問先が増えた。この陳情活動に参加した会社70社を今後「Bグループ」ということにする。
 では、「Aグループ」があるのか、「Aグループ」とは何だ?

 2.東京都産業廃棄物協会の設立
 東京都産業廃棄物協会は、当時、「東産協」と称した。現在は正式には「一般社団法人東京都産業資源循環協会」という。略称は同じ「東産協」である。
 ◆Aグループとは、東産協の設立を企画していた8名の社長たちをいう。この8名は1975年ごろから、サロンのような集まりをしていて、産廃業界の団体を設立しようと懸命に活動していた。Aグループが発起人となって、東京産業廃棄物処理業協会を設立した。その功績は偉大である。このとき、設立宇に参加した会社は97社だったという。
 8名とは、以下の人たちだ(以下、敬称省略)。
 岸本哲、重永哲彦、都築宗政、大場敏代、金寛三、山上毅、原山進、鈴木峯吉
 山上毅以外は、2024年4月現在、全員故人である。
 ◆東産協は、1984年に「社団法人」となり、このとき会員が234社に増えたという。もう少し会員が増えてほしかった。未加入の会員は、《協会に入ってもメリットがない、それに、もし入ったら自由に動けなくなるから》というのだ。
 ◆東産協および全産連の機関誌「INDUST」34巻の1~5号(2019年)に連載された、ジャーナリスト杉本裕明の「東京の協会設立から全産連結成へ」の記事がとても詳しいので参照されたい。
 ◆私は東産協の設立には、正式には関与したとはいえない。間接的に少しお手伝いしたといえるだろうか。
 「Bグループ」を「Aグループ」に仲間入りさせたことと、Aグループと会食しながら法的な質問を受けて相談に応じた程度である。
 1976年の法改正に対する陳情活動が終わって、「Bグループ」としては何もしていなかったところ、しばらくしてAグループから《Aグループに入らないか、一緒にやろう》と誘われた。そこで産廃新聞紙上で、Aグループから誘われたので、BグループはAグループに仲間入りしたい、異存のない会社は、どうぞAグループに参加して、協会づくりに参加してくださいと呼び掛けた。この呼び掛けで、Aグループに入った業者が多数いたが、その中に大物がいた。全産連の二代目会長になる鈴木勇吉である。
 ◆東産協は東京都の産廃課と相談しながら、適宜、会員を対象に講師を招いて勉強会を催し、法令や業務の仕方や技術などを勉強した。初期の集まりでは、勉強会でも総会でも男性ばかりで(女性がいたか覚えていない)、参加する業者には角刈り頭にジャンパー姿が多かった。
 ところが10年以上経つと、総会では角刈りは見えず、スーツ姿ばかりで、女性の出席者も多くなり、会場も立派なホテルとなった。「経団連」の集まりと遜色なくなった。(つづく)

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