「環境新聞」に弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~【第2期:1970年代(昭和45年以降)】⑤』が掲載されました

環境新聞にて、令和6年1月17日より隔週連載されております、
弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~』が掲載されました。

芝田稔秋が弁護士になるまで、そして、弁護士として50年以上廃棄物処理法に
携わってきた半生を、1年間に亘って連載されます。

この度、「第2期:1970年代(昭和45年以降)」の
第5回が掲載されましたのでご紹介いたします。

第2期第5回(令和6年5月15日掲載)
「全産連や全国の協会は法令やマナーの教育・指導で大きな功績」

 1.東産協の活動(つづき)
 1984年に東産協が設立されて数年後、私に顧問の依頼があり、有難く引き受けた。またしばらくして、東産協は毎月機関誌を出すようになり、原稿を頼まれたので、『よろず相談』と題して産業廃棄物問題を中心に連載した。
 東産協は、よく評判の産業廃棄物処理施設の見学会を催した。大型のバスで20名くらい、私も参加させてもらった。見学先の施設の良さと処理技術の高さはとても参考になった。夜は楽しい懇親会となった。
 また、外国の処理施設の見学にも行った。私も1991年9月14~23日の10日間、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、フランス、イギリスとまわった。私にとっては気楽な旅で、施設見学よりは市内見物や飲食が楽しかった。それから33年も経つのでほとんど忘れたが、アンデルセンで有名なデンマークのコペンハーゲンでの多数の彫像や、ドイツのハイデルベルグの街の眺めと、フランスのパリのいろいろな文化的・芸術的な建物はおもしろかった。
 協会の専務理事や事務局の方々ともよく飲んで、業界の良いこと、悪いことの話を聞いたものである。機関誌の連載も数十年になった。法令や判例を解説し、事例を作って解説したりしたが、マンネリ化してきたので、娘の芝田麻里が弁護士をしていたことや産廃も勉強していたし、女性部とも交流があったので、麻里に連載を代わってもらった。高齢にもなったので、2022年3月末をもって顧問を退任した。

 2.全産連の設立
 ⑴東産協の発起人が全産連も設立した
 ところで、東産協の発起人である8名(前回参照)は、東産協の結成と同時に全国組織としての全国産業廃棄物連合会も設立することも考えていた。
 さまざまなご苦労があったようだが、その8名が中心となり、1978年に「全国産業廃棄物連合会」(全産連)が設立され、初代会長に太田忠雄氏を迎えた。太田氏は、福島県協会の会長をしていたが、全産連の設立についても強い信念と熱意をもっていた。
 ジャーナリスト杉本裕明の全産連の機関誌「INDUST」の34巻の1~5号に詳しいが、太田忠雄氏は「全国47都道府県に協会をつくり、全国組織の連合として世間から認知され、国にもの申せる団体としていきたい。そして社会的地位の向上を目指すことに心血をそそぎたい」との意気込みであったとのこと。
 全産連の最初の事務所は、東産協と同じ事務所に同居する形になった。まだ協会が設立されていない県が大半あったと思う。後から次々と結成され、全産連に加入していった。
 全産連の二代目の会長は鈴木勇吉氏、三代目は國中賢吉氏、四代目が石井邦夫氏、五代目が永井良一氏である。
 全産連の設立当初の目的は、産業廃棄物処理業界の地位の向上を目指し、政府に相応の施策を要求することであった。団体としての性質は、処理業者の利益集団であり、政策要請団体であった。この性質は、会長で云えば3代目の國中会長時代まで続いたと思う。専務理事も会長が自分のコネで選任した。
 ⑵厚生省の許可による社団法人化
 その後、全産連は1985年に厚生大臣の許可を受けて社団法人化され、2001年からは環境大臣の所管となった。この頃から、政策要請団体の性質から公益性のある社団法人に変わった。会長が國中氏から石井邦夫氏となり、専務理事には環境省退職者を迎えるようになった。
 2018年2月に石井邦夫会長が亡くなられたため、永井良一氏が会長に就任された。2018年4月1日には「公益社団法人全国産業資源循環連合会」と名称を変更し、現在は、産業廃棄物の適正な処理体制の確立や資源循環型社会のための調査研究および人材育成、産業廃棄物処理業における地球温暖化防止の取り組みなどの事業を展開している。創立当時と比較して、質的には随分と発展成長したものである。

 ⑶全産連と私の関係
 1978年に全産連が結成されてから、7~8年ぐらい経った頃である。私に顧問の要請があり、有難く引き受けた。その後、2005年ごろには(公益法人になる前)、「監事」も依頼され引き受けた。
 しかし高齢となったので、2022年6月末の総会を機に「顧問」と「監事」を退任した。顧問になった正確な年が思い出せないが、仮に1985年とすると、37年間顧問を勤めたことになる。

 ⑷全産連と東産協その他の全国の協会の大きな功績
 現在、産廃処理業界はモラルが非常に高くなり、仕事も適正処理がかなり浸透している。レベルの低かった当初と比べて、雲泥の差がある。
 株式を上場して、多数の従業員を擁し、大きな社屋を建てて、中に大きな施設を造り、少数の担当者がボタンを押すだけで操縦している。敷地にはゴミ一つなく、悪臭も振動もない。煙突もきれいだ。従業員の礼儀作法もいい。社会的信用度も高くなった。
 現在は、受け入れた産廃からリサイクル可能な物を分別してリサイクル品を作って、これを利用する事業者に販売する工程と、リサイクル困難な産廃を処理する工程の二通りの事業を行う業者がほとんどである。「処理業」という方が似合うようだ。
 こういう業界に成長したのは、全産連をはじめ、東産協その他の全国の協会の会員に対する法令やマナーの教育・指導の大きな功績であると思う。
 それに、不法投棄の件数も随分少なくなり、1件の不法投棄事件の投棄量も随分少なくなった。
 ◆疑問:それにしては「INDUST」の巻末の「行政処分情報」という記事には、毎回10件ぐらい許可取消処分の例が載っているが、この分だと、「INDUST」は1カ月に1回発行されるので、1年では120社、10年では1200社となる。それが何年も続いている。これほど多数の許可取消を受ける業界は、ほかにないのではないか。それだけ産廃業界は遵法精神に欠けるということにならないか。
 これほど多数の業者が行政処分を受ければ、業者がずいぶんと減ってしまうはずである。ところが、全国の協会からも全産連からも、会員数が減少して困るという話を聞かない。
 そうだとすると、行政処分を受けているのは協会加入の業者ではなく、非会員の業者たちなのだろうか。それなら未加入の業者たちに協会に入ることを奨める。(つづく)

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