「環境新聞」に弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~【第1期:生誕から司法試験合格まで】①』が掲載されました

環境新聞にて、令和6年1月17日より隔週連載されております、
弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~』が掲載されました。

芝田稔秋が弁護士になるまで、そして、弁護士として50年以上廃棄物処理法に
係わってきた半生を、1年間に亘って連載されます。

この度、「第1期:生誕から司法試験合格まで」の
第1回が掲載されましたので、ご紹介させていただきます。

第1期第1回(令和6年1月17日掲載)
「子供時代に見た芝の夏の光景を今でも思い出す」

 私が弁護士となってからの半世紀は、廃棄物処理法とともにあった。この度、環境新聞から、有難くも廃棄物処理法の歴史とともに私の半世紀を書き記す機会をいただいた。そこで、これまでの人生を五段階に区切り、廃棄物処理法の歴史を、ひとりの法律家の目で通観してつづってみることにした。


 私は、昭和13(1938)年11月23日、当時の新嘗祭の日に、大阪で生まれた。国の祝日に生まれたということと、女子が3名続いた後の男子ということで、父母の喜びはひとしおだったらしい。
 父要と母つね子は、大島海峡を隔てて奄美大島の南に浮かぶ加計呂麻島の西側の先端にある「芝」という集落の出身である。一番上の姉(私の10歳上)が生まれた後、一家は、しばらくして大阪に移住した。
 大阪に出てからの父は奄美出身の人の紹介で、自宅の近くにあった消防署に勤務することができた。有能で真面目にいい仕事をして、早くに昇格したと聞いている。

 1941年12月8日に太平洋戦争が始まった。父は、戦争は今後ますます激しくなり、必ず食糧難になるだろう、今のうちに、ふるさと奄美の芝に帰った方がよいと考え、1943年12月に一家はふるさと芝に引き揚げた。
 当時、私は5歳。記憶はずいぶん薄れている。当時のことについては、二番目の姉美穂子から聞いた話も踏まえている。

 私たち家族が引き揚げた「芝」という集落のあたりには、今では防波堤ができていて、バスを通すため護岸工事をして、かつての自然の風景が変わっているが、当時は人口的設備がなく、白浜の浜辺に青松が数本あり、老人が木陰にすわって、海風を受けて涼みながらまどろむ、のどかな光景が忘れられない。

 そのころの芝集落は、およそ200戸、人口は700名ぐらいだったろう。当時は、鰹漁船の船主が鰹節の製造工場を経営しており、働き手も多く、にぎやかだった。他の集落より、人口は2倍か3倍は多かった。
 子どもの頃の芝の夏の風景を思い出す。
 芝の浜辺は、白浜できれいだった。岩がほとんどなく、海水浴に最適の浜辺がある。
 ベタ凪のときは海底まで透き通って見える。ゴーグルをつけて泳ぐと、いろいろな形のサンゴ礁、色とりどりの熱帯魚がよく見え、泳ぎながら釣り竿で魚を釣ったり、貝を見つけては潜って採った。

 私たち家族は、父が大阪で公務員をしていた関係で現金収入があったので、しばらくは奄美での生活もラクだったらしい。また父は、島に帰った後、まもなく、二つ隣の集落「瀬武」(セダケ)にあった役所に勤務することとなり、現金収入を得る事ができたため、まずまずの生活となった。
 しかし戦争が激しくなり、みんな食糧難に陥った。芝には店がない。買うとすれば、本島の南側ある大きな町「古仁屋」(コニヤ)まで定期船に乗っていかなければならない。簡単には行けず、店にも商品はあまりないと聞いていたから、現金はあまり役に立たなかった。
 母が乳飲み子(私の弟)をかかえながら、よその人の畑仕事などをして、野菜などをもらって飢えを凌いでいた。しかし、こういう仕事は長く続けられるものではなく、ついに体調を壊して寝込んでしまった。
 そこで、父が代わって賃仕事をせざるを得なくなり、やむなく役場勤務を退職することになったと姉から聞いている。(つづく)

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