「環境新聞」に弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~【第2期:1970年代(昭和45年以降)】③』が掲載されました

環境新聞にて、令和6年1月17日より隔週連載されております、
弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~』が掲載されました。

芝田稔秋が弁護士になるまで、そして、弁護士として50年以上廃棄物処理法に
携わってきた半生を、1年間に亘って連載されます。

この度、「第2期:1970年代(昭和45年以降)」の
第3回が掲載されましたのでご紹介いたします。

第2期第3回(令和6年4月10日掲載)
「法制定当時の産廃業界は現在とは雲泥の差だった」

 1978年の4月、お許しを得て私は水上法律事務所から独立した。事務所は弁護士ビル1号館近くにあった「はやまビル」という狭い部屋だった。
 独立に当たっては、大庭一(オオバ・ススム)君という中大の同級生の友人に非常に世話になった。彼は中大卒業後、上場会社に勤めたが、私の司法試験受験の応援をしてくれただけでなく、弁護士になってからも何かと面倒を見てくれた。その彼が、独立に当たりなんと50万円という大金を出してくれたのである。彼の奥さんは小学校の先生をしていたため生活にゆとりがあったとはいえ、なかなかできることではない。その彼は2005年に68歳で逝去した。ホスピスでの別れが最後となった。

 廃掃法施行当時の排出事業者の産廃に対する責任意識は、随分と低かった。産廃は不要物であり捨てる物、なんらの価値もない、捨てるのにカネを掛けるのは経済原則に反するというように、産廃は目の前から消えてしまえばいいという程度の認識だった。
 また、排出事業者の自己処理責任といえども、業者に委託すれば責任を果たしたことになり、その後の処理責任は完全に業者に移るという認識だった。業者は卑しくも都道府県知事の許可を得ているから、それだけ「プロとしての高い知識や技術」を持っているはずだからだと、おだてた云い方をするのである。
 しかし他方では、業者を蔑視し、「業者はお前以外にもたくさん居るからな」といって、処理費を随分と値引かせた。言動は矛盾していた。

 廃掃法制定当時の産廃業界は、適正処理を行っている現在の紳士的な業界とは雲泥の差があった。
 一般論であるが、当時の処理業者は、みんなが捨てた汚い臭いごみを取扱う仕事、みんなが嫌がる仕事をしているとして、自らを卑下していた。モラルが低く、社会的信用に欠け、要領よく不法投棄したり、無許可の者に再委託して不法投棄させる例が少なからずあった。
 「5万円以下の罰金」しかなかった不法投棄の罰則は、1976年の改正で「6月以下の懲役又は30万円以下の罰金」となったが、まだまだ軽かった。
 業者が処理施設を作るための許可申請をするときに、適正処理をするから同意をお願いしますと頼んでも、住民たちから信用されず、反対された。
 都道府県知事の許可を受けたことを重視すれば、一見、プロとしての高い知識と技術を持っているかのように思えるが、それは大きな間違いで、実際は「英検4級」(北村喜宣著『揺れ動く産業廃棄物法制』31項)のレベルのようである。
 この当時の産廃業者は、処理の技術も十分ではなく、処理施設も未熟だったが、処理施設を造るメーカーが熱心に研究して、性能の良い施設を競って製作していたと思う。

 悪徳業者がズル賢い発想で脱法的なアイディアを放言し、業界に広まる例があった。
 ≪無許可の産廃は、「アンコ」にして運搬すれば、バレない≫≪トラックに、許可品目を先に積み、次に無許可の産廃を積んで最終処分場に持ち込む≫
 そこで行政は、安定型最終処分場での展開検査を義務付けた。
 ≪汚泥は残土と混ぜて、残土置き場に持っていけば分からない≫
 その他、ズル賢い言動と不適切な処理が非常に多かったために、行政は処理過程を明確にさせるためマニフェスト制度を採用した。

 廃掃法は当時、著しく増大した多種多様の廃棄物を適正に処理するための技術的な制度を体系化した。「四大公害」(熊本水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息)に対する反省として、排出事業者の自己処理責任制度を採用し、1970年のいわゆる公害国会において制定されたのである。
 本法制定に先立つ1967年8月、公害対策基本法が成立した。排出事業者や国などの公害防止に関する責務を謳い、公害とは何かを定義し、生命や健康がすべてに優先するという原則を打ち立てた。
 四大公害には共通の原因がある。製品の製造工程中に有害物質が生成され、それが工場廃液に含まれているのに、いずれも工場経営者が排出事業者としての責任を自覚せずに、それを無処理のまま川や海に放出したために有害物質が海藻や魚介類に摂取され、その魚介類を多量食べた人たちの健康を害し、生命を奪ったのである。四日市喘息では、煙突からの排出ガスが原因である。
 清掃法制定の1954年当時、国は戦後の経済復興のための産業優先政策をとった。企業を優遇し、経費のかかる産業上の廃棄物の処理は全然規制しなかったために、企業は人体に有害な物質を含むか否かの検査もせずに、無処理のまま川や海に放出していたのである。このため、清掃法制定当時には、すでに公害の下地が醸成されていた。人の健康や生命への配慮が全くなかった。
 水俣では、清掃法制定の翌年(1955年)には、家で飼われていたネコが全部、魚を食べたことにより狂い死にしていた。「原因不明の奇病」といわれたが、病人や死者が水俣という地域だけに発生していたことなどから、株式会社チッソ(以下、チッソ)は工場廃液に原因があると気付いていた。そこで原因究明をやめてしまい、チッソの工場廃液に原因物質があるというなら、その物質を指摘せよ、それができるまで放出を続けるのだとひらきなおり、学者などに対し工場廃液の調査を拒んだ。厚生省も通産省もそういうチッソに加担したのだった。
 新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息の患者は、1967年6月から1968年3月までに加害企業を相手に損害賠償請求の訴えを提起した。熊本水俣病の提起は遅れて1969年となった。この四大公害に対する判決は、いずれも患者側の全面勝訴となった。
 判決はこう述べる。被告チッソの考え方によれば、環境が汚染破壊され、住民の生命・健康に危害が及んだ段階で廃液の放流を止める、それまでは廃液の放流は続けるというのだから、まるで住民を人体実験に供することになり、明らかに不当であると。(つづく)

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