「環境新聞」に弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~【第1期:生誕から司法試験合格まで】②』が掲載されました

環境新聞にて、令和6年1月17日より隔週連載されております、
弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~』が掲載されました。

芝田稔秋が弁護士になるまで、そして、弁護士として50年以上廃棄物処理法に
係わってきた半生を、1年間に亘って連載されます。

この度、「第1期:生誕から司法試験合格まで」の
第2回が掲載されましたので、ご紹介させていただきます。

第1期第2回(令和6年1月31日掲載)
「奄美で夢見た東京での高校進学が実現」

 1.戦争の被害
 生活が苦しくなるだけでなく、戦争がいよいよ激化し、小さな離島の奄美にまで空襲がひどくなってきた。空腹の上に、空からの爆弾や火の玉が襲ってくるのだった。
 芝も被害に遭った。昭和20(1945)年6月に、B29が低空飛行して、ダダダダッという機銃掃射の音がしたあと、まもなく焼夷弾が落とされた。その当時の奄美の家は、みんな木造で屋根が茅葺きなので、火の粉が飛び散ると、たちまちあの家・この家に広がって、村全体が一斉に燃え上がった。
 村人は、何も持たずに山のふもとに作ってある集落共用の横穴式の防空壕に避難した。
 夕方、村全体が全焼し、家はもう影も形も見えなくなった。みんな泣き崩れて、仕方なく黙って防空壕を出て行った。昼まであったみんなの家が跡形もないのだ。
 仕方なく各自で前もって作っておいた小さな疎開家に最小限度の生活用品を運んであったので、その疎開家に向かって家族つれだって歩いていった。

 2.父の若死
 父は農業のかたわら、自分の大工の技術を活かすことにして、山から材料にする栴檀の木を切出し、木挽きで割いて枯らして、よく乾燥させてから、大工にかかった。住宅の空地の一角に大工部屋を作った。
 下駄や重箱、仏壇、机、整理箪笥など、とても精巧で、きれいなデザインのものだった。みんな、買う人に喜ばれた。父の大工の腕はプロなみで、重箱その他の指し物を作っても、くぎを使わず、竹くぎを作り、組み立てた重箱は水を入れても全然漏れないものだった。
 父が元気で大工や農業に精出していたおかげで、母が次第に健康を回復してきたところ、逆に父が無理をしたためか、体調を崩して寝込んでしまった。
 しかし、父には必要な栄養のある食べ物が手に入らなかったため、健康を回復することができず、とうとう、1952年8月に亡くなった。私が中学1年の夏休みのとき、50歳であった。

 3.当時の芝で生活状況
 私は1945年4月から芝の隣の「薩川」(サツカワ)とう集落にある国民学校1年に入学したが、5月頃急に空襲が激しくなり、しばらく学校は休みとなった。とうとう1945年8月15日に敗戦となり、9月から薩川小学校が再開となった。この薩川小学校には、芝と実久と薩川の三集落の子どもが集まる。
 薩川には中学校もある。薩川中学校には、小学校の三集落のほかに、薩川に隣接する瀬武、木慈(キジ)、阿多地(アダチ)の生徒も集まる。ちなみに、私の妻塩子は、瀬武の出身で、この薩川中学での同級生である。
 その当時、電気・ガス・水道がなかった。照明は石油ランプだったので、油煙ですぐホヤが曇るので、毎日ホヤを磨くのが子どもの日課だった。水汲みも子どもが学校から帰ってから手伝った。ガスがないから、親に連れられて、山に行って薪を拾って、大きな束にして、かついで来る。2週間に一度は山に行った。
 靴はなく、みんな裸足で歩いた。一般の大人も裸足だった。学校の先生は靴をはいていた。
 戦後の食生活は相変わらず貧しかった。コメが無い。生徒の弁当は、サツマイモをハンケチに3~4個包んだだけ。おかずはソテツの味噌。
 子どもたちの普段の遊びの舞台は、浜辺と村の真ん中にある小さな広場である。広場には砂場があり、鉄棒があり、土俵もあった。先輩や後輩が仲良く遊んだものである。

 4.芝の浜辺での遊びと廃油ボールの被害とロンドン条件
 子どもが浜辺で遊んでいるときに、漂着した廃油ボールが砂にまみれて分からないものだから、うっかり踏んで、足が真っ黒に汚れたり、座ったときにズボンを汚したりして腹立たしい思いをした。海底にも岩場にも付着していた。
 そのころ、わが国は大型タンカーで、中東に石油の輸入に行くときに、南方あたりで大量のバラスト水を海にこぼす。そのときに船底や壁面に付着したドロドロした原油のかたまりが大量に出て、海流に乗って沖縄や奄美に廃油ボールとなって漂着したのである。
 そういう海岸汚染のために、ロンドン条約やマルポール条約や海洋汚染防止法などが制定されたということを弁護士となってから知った。

 5.奄美から東京へ
 1954年3月は、いよいよ薩川中学校の卒業である。3年生は、みな進路を決めねばならない。古仁屋の高校に行けたのは男女計7名だけだった。私は、なんとしてでも高校に行きたかったが、母の経済力では不可能だった。
 そこで母が思いついたのが、自分の死んだ父親(元田正熊)の10人目の弟が東京で弁護士をしているので、そこで書生に使ってもらって、高校(夜学)に入れてもらうことだった。私は大喜びで、ぜひお願いしてくれと母に頼んだ。母が手紙を書いてお願いしたところ、東京の方で快諾してくださり、私の上京が実現した。
 東京の弁護士とは、「元田弥三郎」先生といって、東京都台東区に事務所を構えておられた。元田先生はお子さんが七人で、ご夫婦と合わせて、九人家族であった。
 私は、母が古仁屋まで送ってくれたので、古仁屋から船で鹿児島に着き、鹿児島で母方の親戚の家に二晩泊めてもらって、1月28日の午前10時ごろ、「霧島」という特急で鹿児島駅を出発して、翌日29日の夕方5時ごろ東京駅に着いた。
 ホームで、元田先生のご家族5人で迎えて下さった。元田先生のご家族はみんな、慣れない田舎者の私を親切に、よく面倒をみて下さった。私はいったん、台東区立上野中学校に「転校」する形になった。元田先生のご長男と同じ中学3年のクラスに入れてもらった。
 この頃の東京では、車はルノーやフォルクスワーゲンが多かったが、驚いたのは、牛も大八車を引いて通っていたことである。1年後くらいに消えたと思う。

 6.元田先生方での書生生活の始まりと高校進学
 私は1954年1月に元田先生の法律事務所兼自宅に書生として入れてもらい、上野中学校を卒業してから、都立の上野高等学校の定時制(夜学)に入学した。奄美で夢見た東京での高校への進学が実現できた。うれしかった。有難かった。
 夜学は4年制である。毎日の授業時間が全日制よりも少ないため、1年間、長くなるわけである。(つづく)

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