「環境新聞」に弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~【第2期:1970年代(昭和45年以降)】①』が掲載されました
環境新聞にて、令和6年1月17日より隔週連載されております、
弊所顧問弁護士芝田稔秋執筆『産廃と私~弁護士50余年の歩み~』が掲載されました。
芝田稔秋が弁護士になるまで、そして、弁護士として50年以上廃棄物処理法に
携わってきた半生を、1年間に亘って連載されます。
今回から「第2期:1970年代(昭和45年以降)」と表題を改め、
この度、第1回が掲載されましたので、ご紹介いたします。
第2期第1回(令和6年3月13日掲載)
「消防法違反事件が廃棄物処理法に関わるきっかけに」
1.山下豊二法律事務所で学んだこと
司法修習を終えて、晴れて弁護士になった私は、1971(昭和46)年4月から、海事事務所である山下豊二法律事務所に入所した。
海事事務所でもあるこの法律事務所を希望したのは、海洋開発や船の衝突事件に興味を持っていたためである。奄美の海で育ったことも影響しているのだろう。海洋開発の問題には、廃油による海洋汚染という環境問題もあり、偶然とはいえ、産業廃棄物の問題とも密接な関係があって、結果的に関心・願望が一致したのだった。
最初の頃は、借地借家の問題、交通事故や賃金請求や手形・小切手事件など、いわゆる一般事件を担当した。
私は、一般事件のかたわら、すでに終わった海事事件や継続中の海事事件の記録を読ませてもらって勉強した。それによって、海事事件の始めから終わりまでの手続きの流れや論争の内容、弁護の仕方などをたくさん学んだ。
入所して間もなく、横浜の海難審判庁での海難審判を傍聴した。海難審判の目的は、直接には海技士等に対する懲役であるが、その前提として、衝突事故その他の海難の原因究明をしなければならない。
何が原因で衝突したのか、衝突した位置はどこか、時刻はいつか、見張りの位置や人数、船の速度と方向、どこを何時何分に出てどの方向に向かって進んだか、その方向と速度で進行した場合、理事官主張の衝突位置と合致するか、相手の船に何時何分にどこで気が付いたか、衝突を回避するためどんなことをしたかなど、注意義務を尽くしたかを究明する必要がある。
海事事務所に入所して分かったのは、弁護士が海事補佐人になるには、資格としては海技免状を持つとか、乗組員の経歴を持つ必要はない。しかし、理想は貨物船の船員経験があり、操船技術や機関操縦に明るいことである。顧客に自慢できる「売り物」となる。
1971年4月、私は登録をして海事補佐人の資格を得た。
2.山下事務所在勤中に廃棄物処理法に出会った
1972年の頃であるが、山下事務所在勤中に消防法違反事件の国選弁護事件を担当した。この事件が、私が廃棄物処理法に深くかかわるきっかけとなった。
この事件の実態は、ドラム缶の半分くらいの廃油の不法投棄である。廃油の不法投棄として起訴されて然るべきだったと思う。ところが、同法の施行から日が浅かったためか、検事は「危険物取扱いの資格もないのに取扱った」という嫌疑で、消防法違反事件として起訴したのである。私は、実質的に産業廃棄物である廃油の不法投棄の問題として勉強した。この時の勉強が、その後の仕事に結果的に役立った。
3.海事事務所から一般事件を扱う水上喜景法律事務所に移った
海事事件を扱う山下事務所で2年間お世話になった後、1973年4月に一般事件を扱う水上喜景先生の法律事事務所に移った。理由は、将来、独立した場合、海事事件は非常に少なく、その海事事件で生業を立てることは容易ではないと考えたからである。
4.新しい動きが産業廃棄物の仕事を招いた
水上事務所に入所した1973年に、高校卒業後15年ぶりに高校時代のクラス会があった。そのとき、級友の高橋健二君が、川崎市の扇町で廃油の焼却処理の会社を経営しているといって、廃油処理の話を得意げに話していた。そこで私が話を聞いて応答すると、弁護士のくせに産廃のことをよく知っていると感心して、ぜひ近いうちに会社に来てくれ、相談したいことがたくさんあると請われ、しばらくして彼の会社に行った。このとき、焼却施設を見学したのが役に立った。
この後まもなく高橋君が、当時「産廃新聞」という小さな新聞を出していた長谷川清一氏を紹介してくれた。
産廃新聞は、1カ月に1回発行しており、その新聞に連載してくれと頼まれ、1973年の秋以降、およそ3年間連載した。これを通じて、産廃業界に私の名前が広く知られるようになった。
私はこの産廃新聞の連載で、事業者や産廃業者の法的責任や権利義務について解説したと思う。事業者は産廃の自己処理責任があり、その責任を果たすためにも、運搬業者や処分業者と処理費などを明記して、書面で契約を交わすべきだと書いた。当時、事業者は契約書を作らず、運搬業者にだけ口頭で発注していたからである。
関東にある役所の産廃課では、産廃新聞の欄外にハンコを押して、係員から部長まで回し読みしたと聞く。そのため、私の名が産廃課に知られ、後日役所に行った時、丁重に迎えられて業者がびっくりしたのだった。
その当時、廃油処理会社の組合の集会が東京中央区の区民会館で毎月一度開かれていた。高橋君はその組合にも案内してくれた。ところが高橋君が1980年頃急死したので、私は組合への出席を遠慮していたところ、ある日、組合長から電話があった。出席を続けてほしい、また自分の会社の顧問になってくれというのだった。(つづく)